美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。定期的に通っていたイタリア、ヴェネチアでは?🅼
 
 絵/山口晃

私はかなり絶望的な方向音痴だ。
駅の改札や地下鉄の出口を出た時、どこに出たかどちらにいけばいいか分からないのはいつものこと。
現在はスマホという便利なものがあり道順を示してくれるけれど、それでも万全ではない。
まず出発点からどちらへ向かうのが正解か理解するのに時間がかかる、歩き初めるとなぜか目的地と反対の方に向かっている、いつのまにか道をそれている・・・と油断ができない。
 
さて、迷宮の都市といえば、ヴェネチアはその一つとして挙げられるのではと思われる。
自動車の通行が一切なく細い路地や運河や橋で構成されているこの街は、たぶん普通の人でも必ず一度は迷うはず。
そのヴェネチアに、多くのアート関係者が2年に一度、ヴェネチア・ビエンナーレなる国際美術展を見るために訪れる。
方向音痴の私はいつ迷子になるか気が気ではなく、街歩きどころではないのだけれど、幸いにも山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)は伝書鳩並みに方向感覚に優れており、多少口うるさいけれども旅の伴にはナビシステムとして大変助かるのだった。
 
ここ10年以上通い続けていたヴェネチア・ビエンナーレ。
世界的な感染症蔓延で延期になり今年2022年にようやく開催となったにも関わらず、まだ完全には終息していないため私たちは苦渋の決断として訪問を見送ることにした。
ガハクも私もとてもとても残念でならない、が、最新の世界のアート情勢を知りたかったというよりもイタリアに行く口実、おいしいものを食べる機会を逸してしまったから・・・かもしれない。
 
食べることに重きをおいたとしても、大義名分は展覧会鑑賞なのでこちらもしっかり見なければならない。ビエンナーレ会場はかなりの広さで、メイン2ヶ所に加え街中にも展覧会場があり、さらには関連して特別展を企画している美術館も数軒ある。
大抵3泊4日で滞在するが、展示を全て見きったためしがなく、連日歩きくたびれてよれよれの紙のようになる。
そんなハードスケジュールの合間を縫って、おいしいごはんも食べなければならないので時間配分がとても難しい。
 
食事のために捻り出した時間の中で、お昼に一度は必ず立ち寄るのが(私たちによる)通称「橋のお店」。

サンマルコ広場から東へ少し向かった、小さな橋のたもとにあるトラットリアだ。
通しでやっているのかお昼を随分過ぎた時分でも開いているので助かる。
さほど広くない店内にテーブルを数人でシェアするように座るような混雑時にはぎゅうぎゅうになるようなところである。
 
シンプルな白いお皿に素朴な見た目の、でも確実に満足できる料理が出てくるが、カラフェで頼んだ白ワインはややぬるくなっている・・・という気軽なお店だ。
幅の広い平たい麺に少量のオレンジ色の破片が雑にまぶされたようにしか見えないけれど、脳天にまでガツンと響く濃厚な風味で、一口でこれは!と感じさせるカニのパスタがあればラッキー。ヴェネチアだったらどの店でもハズレのないおいしさのにんにくとオイルの効いたボンゴレ(ビアンコの方)と焼いたスズキが私たちの定番だ。
ここのスズキは頭がついたまま出てきて皮には焼き目もしっかりつきつつ身はふんわり。
添えてあるレモンをキュキュッと絞って、香ばしく仕上がった皮をパリッと割るようにナイフを入れる。すでにほのかな塩味がついていて、テーブルに塩コショウなどの余分な調味料は置かれていない。少量のオリーブオイルがお皿の隅にソース代わりのように垂らしてあるので、途中で味に変化がほしくなったらちょこっとつけてみたりする。
これを食べながらいつも思うのだが・・・
「しょうゆかけたいよね」
どちらともなくつぶやきが出る。
「うん、焼き魚定食にしたい。ごはんがほしい」
・・・と日本人の私たちにとってはなんだか落ち着く一品なのである。
魚をほじほじと分解し始めると、プラモデルに熱中する子供か実験中のマッドサイエンティストのようになって、もう止まらない。
身だけでなく皮も完食し、最後には頭、骨、尻尾だけが、ぽつんと残される。

お皿を下げられる時、毎回店員さんから驚きのリアクションをされるのが恥ずかしくて仕方がないけれど、まるでマンガに出てくる魚の骨のようなビジュアルなのでこれは驚かないほうがおかしいだろう。
 
さらにこのお店の何がいいかというと働いているスタッフの雰囲気がほんとうによい。
元気なおじいさん達が賑やかに行き来し、常連さんと会話をしていたりして家族的なムードにあふれている。皆年格好が同じなので、おそらくオープンしてから一緒に働き一緒に年をとってきたのではと思われた。
観光客もたくさん来るけれど、馴染みの地元のお客さんも大勢いる・・・そんな場所でごはんを食べるのは楽しいものだ。

■「ヒゲのガハクごはん帖」ヴェネチアの旅[後編]へつづく。

●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納する。
2023年9月アーティゾン美術館にて個展開催予定。

通称「橋のお店」のスズキ

コメントを入力してください

コメントを残すにはログインしてください。

RECOMMEND

北欧の絵には神秘が描かれている?!

漫画家・コラムニスト

辛酸なめ子