美術史の豊かな知識を土台にして、当代一の画力を武器にどこにもない絵を生み出す。そんな人気画家、山口晃ガハクは夫婦揃って食いしん坊。日常で、旅で、制作中の日々で、散歩の途中で何を食べてるの? ガハクが日常を描くコミックエッセイ『すゞしろ日記』に「カミさん」として登場するガハク妻による食事帖。コロナ禍でご贔屓のそば屋に通えなくなった頃と復活の生酒まで。🅼

絵/山口晃

おそば食べたい・・・

山口ヒゲ画伯こと夫(以下ガハク)は、居職につき基本こもっているのが日常だ。元来が出不精らしく、展覧会だの買い物にも自ら出かけることもほとんどない。
そんな風に言ってしまうと、地下の洞穴で冬眠したまま出てこない浦島太郎のような生活をしていて大丈夫なのか、と心配される方もいらっしゃるかもしれないけれども当人としてはこれで一向に困ることもなく、充実した日々を過ごしている様子。
外界との接触は、生身の人間とは仕事関連の方々というかろうじて時々と、加えてアカウントを持たず閲覧するだけのTwitterで十分足りているようだ。
紙と鉛筆さえあれば一人でずっと遊んでいたという手のかからない子供だったと聞くが、それから何も変わっていない(成長していない)ということか。

さて、そんなガハクなので、2020年4月東京に緊急事態宣言が発令されても生活が大きく変化することはなかった。

左|緊急事態宣言前
右|緊急事態宣言後

折しも某コミッションワークの仕事が大詰めで、宣言があろうとなかろうと鉢の中の金魚さながら閉じ込められた状態になっていた。
夏になり世の中が手探りしつつゆっくり始動し、ガハクも多忙の状態からは解放されたものの、なまじ普段家から出ないせいか感染症に対して多大な警戒をすることになった。
もちろんやみくもにウイルスを恐れているのではなく、ガハクなりにいろいろと調べて分析した末の憂慮だ。

当時はカミさんこと私もフルタイムで働いていたので、すべてテレワークというわけにもいかず定期的に出勤していたが、私が荒廃した近未来(その類の映画をご想像ください)にでも乗り込んでいくかのごとく毎回不安でたまらない様子。
買い物に関しても、出かけなければ食料は手に入らないのに、同上の心配をする。
ガハクが外に出るのは健康維持のための散歩くらいで、帽子とメガネで完全防備、極力人気のない時間と場所を選び、人とすれ違うときは2m以上離れる(なので時折歩道を外れる必要があり)・・・くらいの気の遣いよう。
以前にもまして家から出ず、感染症のことが不安。
そうなると、ごはんタイムの大切さが水を吸い込んだスポンジ玩具のようにさらに膨れ上がり、生き甲斐といっていいくらいになってしまった。
そこまで重要度が高くなってしまうと、おうちのご飯だけではだんだんカバーしきれなくなってくる。
やはり外食には、お昼にひとりでちょっと一杯やりながら、とか、夜に「疲れたー」と言いながら豪快にイタリアンを、といったような独特の充足感があった。
各種おとりよせも所詮は冷凍品なので、どこか心をだましておいしいと言い聞かせなければならない部分があり、むしろ中途半端にガハクの心を乱してしまった。

「おいしいものが食べたいの」
「おいしいものはないの?」
とガハクから度々訴えられても、こちらは仕事も忙しいし食料調達にも調理にもそうそう時間はさけない。
家から出られないのは平気であるものの胃が満足できないことで、感染症ストレスは外壁のひび割れにしみていく雨水のようにガハクを少しずつ蝕んだ。
表向きは異常がなくても内側はぼろぼろと浸食されていく。
ある日ガハクが、
「『おそば食べたい、おそば食べたい』と泣きながらつぶやき、そばを啜っている様を空想する」
というキャラクターを落書きにした。
この哀れな絵はガハクのインスタに2020年10月頃ポストされている。

https://www.instagram.com/p/CGHr1P7jLUz/?igshid=MDJmNzVkMjY=

おそばといえばやはりK田のMと並木Yかな・・・
とガハクはおいしかった記憶をたぐりよせ、遠い目をして語り始めた。
コンセプトの違う2軒、まずそばの量に現れているとのこと。
Yの方は上げ底状のざるにお上品な量のそばが乗る、といった具合。
おなかの足しには全然ならないけれど、元々そばやすしはおやつ的なものだったからその流れを汲んでいるのかと。

対するMは、カレー南蛮というYからすれば邪道ともいえる品書きもあり、 “食べる” ことに主眼がある。
お酒を呑んで甘辛いたれのかかった焼き鳥を・・・などと賑やかにいきたい。
名物ごま風味つゆのごまそばには、おいしい食べ方をいろいろ提案したいという気取らない田舎風情が感じられる。

両店甲乙はつけがたく好きではあるものの・・・
「Yのつゆはね、ほんっとうにうまいんだよ。辛いけどね」
とガハクの口調が急に強くなった。
そして、同じようなそばは他にもあると思うけど、あのつゆ以上のつゆはない、のだと言い切った。

「つゆ!」と感嘆符をつけたくなるような強さでひろがる、ガハクにとって完璧なそばつゆ。
その辛さは生粋の群馬県民であるガハクの母がしょっぱいね、とコメントするくらい。
落語に出てくるそばのつゆはきっとこんな風だと思う、とガハクは言う。
全部つけたらしょっぱくてかなわないので、ほんのちょっとだけ付けて盛大に啜(すす)る・・・という。
この啜るという食べ方がつゆの風味を最大限に引き出すということを、ガハクはYではなくて鴨ベースのスープを看板にしている銀座Hというところで実感したそうだ。
スープが自慢なのでぜひ飲んでほしいと勧められ、れんげですくって口にしての感想は「こんなものか」だったが、隣でラーメンを啜っている人を見て、何の気なしに同じように食べてみたところ、一気に味が出てボワーっと広がり、なぜそばは啜るかの理由を身をもって理解したという。

されど そば食いの日々…

こんなことを聞かされると、Yにて行儀を無視してズルっと音をたてそばを啜り、つゆの味を確認したくなるし、Mでごまそばの香ばしさを試してみたくなる。
でも、安全が確保されて実際訪れるならば、親しみ深い近所のお店に真っ先に駆けつけたい。
「まず行くならKだよね?」

ガハク行きつけのおそば屋は日暮里駅近くのK。
好物の穴子天ぷらがまだ600円だった学生時代から現在1500円の価格に至るまでの長きに渡り通い続けている。
この店で特筆すべきはサイドメニューと日本酒の種類の豊富さだ。
夕方5時を過ぎると短冊に書かれた本日のお品書きが次々と壁に貼り付けられていくのを見ると、ちびちびつまんでいた卵焼きから第二弾はいかに注文するか、眼にキラリと星が光る。
春のおひたし、夏の水なす、秋はむかごや銀杏、冬にあん肝など季節の一品は忘れずに頼みたいし、しまあじ、平貝といったお刺身類もたまの贅沢だ。
お酒の方は一升瓶が冷蔵ケースにずらりと並び圧巻であるが、最初の一杯はタンクに貯蔵された滋賀県の蔵元の生酒と決めている。
目の前で表面張力いっぱいいっぱいにグラスに注いでくれる。
受け皿などという軟弱なものはナシ。
まれに入ったばかりのバイトさんだと腰が引けてやや少なめだったり、自分もしくは誰かが動いた振動がテーブルに伝ってお酒がこぼれたりというアクシデントもあるので毎度背中にぴりりと緊張感が走る。
二杯目からはお酒だけの別の品書きを見て検討するという要領だ。

改装前はお酒の銘柄も短冊に書かれてずらりと貼り出され雑多な感じが心安かった。
ほどほどに呑んでつまんでからもりそばで締めるわけだが、ガハク曰くKのつゆは他に例のない仕様といった具合で、だしのカツオが目立ちやたら主張がトガっているのだそう。
辛めのつゆは我が道をいっていて、そばはやや白めの更科系。
個性的なKは近所の一風変わった、でも筋の通った信頼できるおじさん、といったところだろうか。

心配なガハクの状況については、そばごころのついてしまったガハクのために緊急手段として通販で信州の手打ちそばを入手。
それを食べてからは少し状態は落ち着いたようだった。

2022年10月末日、感染状況のグラフが谷になったタイミングでついに日暮里のKへ行く。
これまで何度か通りすがりに店内をうかがってきたが、人気店でだいたい混んでいるし、換気に不安があり、多くのお客はお酒で気分がよくなりマスク無しで談笑、そばは啜るのでウイルスを吸い込む危険も高いという推測・・・の状態で再訪にはずっと二の足を踏んでいた。
通しで営業しているので、平日に昼どきを外して行けば大丈夫という読みが当たり、入店時のお客は一人だった。

本当に久しぶりのK。早速生酒をふたつ注文する。
すでに外食自体の機会は仕事上何度かあったので、気持ちが浮き立ちスローモーションでジャンプしたくなるとまではいかなかったが、日常を象徴する馴染みの店でふわりと香り立つとろっとした生酒を口に含むと感無量であった。
穴子の天ぷらを分けながらしみじみガハクに語りかける。
「ついに来たね!」
「来たね」
「あの『おそば食べたい』の絵を描いてからたいぶ経ったけど、やっとおそば屋に来られて感激してる?」
「・・・気づいたんだけど、あの時お店に行っておそばが食べたかったのではなくて単にひもじかったんだと思う」
「ちゃんと三食食べてたよね??」

あの頃、買い出しにもリスクがあるし一苦労なので生協の宅配を頼むようになっていたが、冷蔵庫の収容能力も考慮しつつの注文の加減がつかめず、全体に食料が少なめだったかもしれない。(後に週イチでは足りなくて別の宅配も追加することに)
また、外に出なくなったせいなのか、なぜだかおやつ類が欠乏していて間食はないに等しくなっていたかも・・・。
新しい生活様式とやらの下で世間では体重増加の懸念が叫ばれている中、そういえば我が家ではふたりともむしろ体重が減少していた。
私は身体が軽くなりよろこばしいくらいに思っていたが、聞くとガハクの方は日に日に体重が減っていき(お風呂の前に測るのがルーティン)病気かもしれないとひとり悩んでいたそうだ。
勤め人だった私は時間がくれば寝ついてしまうが、夜型のガハクは仕事をしながらやたら口寂しかったとか。
そんな時、夜中にYouTubeで落語「時そば」を見てしまい、演者のそばを啜る仕草や口まねがガハクの心の堰を切ってしまう。
正気を保つため、あの絵を描いたのだと思う。

「・・・言ってよ。おなかが空いていたなら・・・」
思いもよらない理由を知って私は驚くやらあきれるやら。
「・・・でもいくら頼んでもレモンケーキを注文してくれなかった」
「それは・・・本当に欲しいか分からなかったし。カタログを見て目に入ったから言ってみているだけなのかな、と」
「欲しいから頼んだにきまっているでしょう!」
「でもさぁ1ページ目に載ってたものだし、適当なのかと」
「いつもそう、聞いてくれない」
ここでレモンケーキ事件の話か・・・・。
「結局頼んで届いておいしかったからいいよね?」
自分で通販の注文ができないガハクであった。

■次回「ヒゲのガハクごはん帖」は2月第2週に公開予定です。

●山口晃さんってどんな画家?
1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。96年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。 2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。
日本の伝統的絵画の様式を踏まえ、油絵で描く作風が特徴。都市烏敵図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。
主な個展に、2015年「山口晃展 前に下がる下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18 年「Resonating Surfaces」(大和日英基金ジャパンハウスギャラリー、ロンドン)など国内外展示多数。
2019年 NHK大河ドラマ「いだてん 〜東京オリムピック噺〜」のオープニングタイトルバック画を担当し、22年善光寺(長野)へ《善光寺御開帳遠景圖》を奉納する。
2023年9月アーティゾン美術館にて個展開催予定。

ガハクが渇望していた「レモンケーキ」の箱

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